トップページ > 博多織について

鎌倉時代、博多承認であった満田弥三右衛門は聖一国師と共に宋へわたり、織物、朱焼、箔焼、そうめん、じゃこう丸の5つの製法を修得します。その中のひとつである、織の技法だけは広東織と称して家伝とし、代々受け継がれることとなります。その後、子孫である彦三郎も明へと渡り、織物の技法を研究。帰国後は若竹伊右衛門と共に工法の改良を重ね、厚い織物を作り上げます。そして博多の地名を取り「覇家台織」と名づけられました。
     

慶長5年(1600年)、黒田長政が筑前52万石を領有したとき、「独鈷」と「華皿」文様柄の博多織を、徳川幕府へ献上品として選んだことから「博多献上」と呼ばれるようになりました。
 
謙譲および変わり献上は、ジャカート機またはドビー機を率いた先染め、または先練りの平織りの変化織りとされ、たて糸8本以上を一群とした後手作業により筬羽一羽ごとに引き込むこととされています。この場合の筬の筬密度が決められており、さらに「綾竹の市を修正し、手作業で縦糸の張力が均一になるように調整する」「紋は浮けたてにより表す」「献上の模様は決められたものにする」など、細かいルールが定められています。
         
   
密教法具のひとつ、独鈷は、真言宗では煩悩を破砕し、菩薩心を表す金属製の仏具で修法に用いられます。細長く手に握れるほどの大きさで中ほどがくびれ両端がとがっている独鈷を図案化した模様です。   元来は仏具の一種であり、仏の供養をするとき、華を散布するのに引入られる器を図案化した模様です。   謙譲の模様の「縞」には両小持(りょうこもち)と中子持(なかこもち)を使います。